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随想「東京下町物語」


辰巳芸妓 □辰巳芸妓の手古舞姿

 45年(1970年代)ほど前に、東京の深川に移り住んだ。
 料亭に囲まれたマンションは、ここだけ、火の見やぐらのように周りが見まわせた。
この後この火の見やぐらのようにそびえるマンションの窓に、花柳界・深川の街の物語が次々と映し出された。
 ここに移り住んだ最初の夜、今まで聞いたことのない音色が、窓の下から聞こえてきた。
 その音色は遠くから揺れるような感覚で少しづつ近付いてきた。
 夜の静寂の中にかん高い男の人の声が途切れることなくいつまでもつづき、その合間合間に三味線の音が控えめに爪弾かれていた。
 窓から下を見ると、着物姿で三味線を爪弾きながら唄っている年輩の男の人と、その後につかず離れず続く、若い連れ三味線の男の人が見えた。
 それが初めて見た新内流しだった。
 声は冬の夜の街に透き通るようにとおり、料亭の女将さんの呼ぶ声で、門の中に消えていった。
 その年を最後に、新内流しが来る事はなかった。
 たった一度の幻のような光景だった。
 マンションの窓からは、すぐ下に料亭の雪見障子越しに座敷きが見えた。

座敷の中では客と芸妓が、唄や三味線にあわせて踊る姿が見えた。
若い芸妓は、三味線のかわりにギターを抱え、その頃流行の賑やかな歌を唄っていた。
深川はその昔材木商が軒を連ね、木材で財をなした材木問屋の旦那衆が、この辰己芸者の花街をささえていた。
その材木問屋も東京湾の埋め立て地の新木場の方へ次々と移り、それにつれて深川の花柳界も賑わいを失っていった。
それでも私のいたマンションの下の裏通りには、夜中近くになると座敷き帰りの芸妓が、日本髪姿の千鳥足で店じまいする料亭の人に挨拶しながら帰る声が、いくつも聞こえていた。
とくに雨の日などは、手ぬぐいを頭に被った芸妓が小走りに帰りを急ぐ姿は、突然そこだけ映画の中にスリップしたような感覚に襲われたものだ。



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